【Valkyrie】



 暗闇を歩く。真の暗闇ではないものの、町中のネオンがフッと消え、今俺がいる場所は別世界かと思わせる雰囲気になる。
 棺、棺、棺。どれだけ並びたてられたかは分からないほど、沢山の棺が佇んでいる。それらは一つ一つが人間であった証。人間がいた証拠。
 うんざりしてくる、そして忌々しくなる。どれだけおかしな状況であろうと、自分一人だけこうならないのは、自分が異常であるという証明にもなってしまう。
 当然だが俺は正常だ。この町に来た直後はずっと思っていた。誰もいない、出迎えは全て棺。慣れとは恐ろしいもので、こんな異常にも適応出来る自分が恐ろしく感じてしまう。
 後ろを振り返る必要は無い。彼らだったものは自分とは関係ないのだし、別に何かあったとしても助ける必要も無い。もっとも、自分以外いないこの空間で、何かが起きること自体ありえないのだが――。

 もっとも、今までそう思っていた自分の中での常識など、後数分もすればいとも容易く崩れ、全く別の俺の中での常識が構築されようとは、この時は思いもしなかった。



 音楽は教えてくれた。周りからか隔絶する術を、他者の言葉を聞かないでいられる最大限の方法を。
 だがそれも今の間だけは出来ない。どうせ誰もいないのだからいいだろうと思うが、外さなくてはならない時以外は付けているからか、周りの静けさが嫌になる。音楽と言っても、所詮は隔絶の術。どのアーティストが好きとか、どのジャンルを聞くとかはこだわる事をしない。ただなんとなくウェブ上でダウンロードした曲を容量の限り詰め込んで、ランダムで延々とリピートしているだけ。聞き飽きたらその場で削除し、またどことも知らないサイトでアップされているものを入れておく。そんなもの。俺にとっては音楽は嗜好ではない、手段の一つだけ。
 そもそも俺が好きな事を挙げてくれと質問されたら、何を答えたらいいのか分からない。現に左手にある缶コーヒーを飲みながら歩いているのだが、決まった銘柄やメーカーなど無い。強いて言うならブラックを中心に飲んでいるが、当然他の物も飲んでいたりする。
 缶を傾け、自分の口の中へと運び込む。しかし、そのまま口へと注がれる事は無かった。仕方なく手頃なゴミ箱という名の自転車の前カゴがあったので、バスケのシュートのように上から投げ入れてみる。多少距離があったのか、その自転車に乗っていた棺に当たったが、それはどうでもよかった。

 そして何となしに歩き回り、とある場所に辿り着く。ゴシック調の趣がある、ホテルを思わせるような概観の建物だ。果たして俺はこの扉を開けていいものだろうか。ふと、目の前のものを見ながら思い留まる。誰も存在しない間に勝手にこの中に入って、不法侵入と勘違いされないだろうか。この時間帯は他の人間にとって無かった事とされる。ならば自分はいつの間にかこの建物の中に入っていた事になる。正直避けたい所だが、外で何もせずに待っているのも癪に触ると思い、仕方なく扉を開け放った。
 誰もいない、自分を歓迎するものなどいない。それが分かっていても、今まで散々打ち砕かれてきた微かな希望を求めてしまう。そこには俺自身に罪は無い、勿論、砕いてきた希望にも罪は無い。どうしようもないことなのだ、この瞬間は、この気持ちは――。
 だが、それも今までの常識を大きく覆す事態によって、また希望という矮小な存在が生み出されてしまった。
「こんばんは」
 どこか懐かしい声が聞こえる。それはこの時間帯に聞こえなかったものであり、自分にとってとても親しみのある声だった。
「突然で悪いんだけど、君に署名をお願いしたいんだ」
 そこにいたのは紛れも無く少年だった。拘束服、あるいは囚人服を思わせる、決して少年には似合っても似合わないと言いたい服装だった。ただの縦縞のパジャマといえばそれっきりだろうが、何故か少年の持つ雰囲気から、そちら方向の印象を持つ。
 血のように赤いノートは、少年の掌の上で軽やかに舞い踊る。そして、ある一ページに差し掛かると同時に、唐突に踊りはエピローグへと向かった。
「このページ、ただ、君の名前をサインしてもらえばいいんだ」
 そう言いながら少年は俺にペンを渡してくる。誰も書くとは言ってないし、何よりもこんな時間に、棺にならない人間がいる事の衝撃で頭が追いついてない。棺にならなかった人間を見た事が無いわけではない。当たり前だ、鏡を見れば一回はそいつを見てしまう。
 断ろうとした、特に意味が無さそうだし、怪しいとしか言えない。だが、俺の意思に反して右手はペンを握ってしまう。まるでそうなるよう義務付けられているように。
「どうしたのお兄さん? 名前、書かないの?」
 左目にある泣きボクロが印象的な少年は純粋な眼差しで俺を見る。そこには悪意など全く感じられないが――それ以外の何かを感じ取ってしまった。
「……ありがとう、――――さん」
 俺は、その何かに屈してしまった。人間一人ではどうしようもない、運命みたいな物によって、強制的に名前を書かされてしまう。勿論、ペンを滑らせたのは俺自身だ。ただ、本当に書こうと思ったのかと聞かれれば、答えはNOと返す。抗いがたい何かがあった。そして俺はそれを拒絶する事は決して出来ない。それが悔しくて、悲しくて、惨めで、酷く痛々しかった。
 それに、今思い出してみると、書いた名前が本当であるかどうかも怪しい。もしかしたら全く違う名前を書いたのかもしれない。その答えは分からないが、そう考えるとゾッとする。自分で書いた本当の名前だと思うものが実は違う。それは自分を表す名前というものの消滅であり、自分を示すものが無くなった事となる。

 少年は気が付けばいなくなっていた。俺はこの十年間で鍛えた体内時計を数える。後数分もしないうちにこの時間帯が終わりを告げる。後数分間、何事も無い様にこの建物の中で休むことを選択した。
 だが、その安息の時間も、終わりを告げる前に唐突に終わってしまった。

「誰ッ!?」

 これが、俺と女神との第三種接近遭遇だった。

 ――――

「……そんな事があったんだ」
 ふと、屋上の手すりを手放し、横にいたゆかりの顔を見る。俺は風の音でかき消されてしまうほど小さな声で肯定をする。
 俺がこの事を話し始めた切欠は至極単純なものだった。

「私が気になったのっていつから?」

 放課後、何となしに外の風を一身に浴びたかった俺は、せっかくだからと恋人を連れてのんびりする事にした。既に俺たちは部活やら何やらを引退し、後は卒業を待つだけの身となった。勿論、俺たちは示し合わせたように進路は同じ大学となった。お互いの合格が判明した時、鳥海先生が凄い不満そうな顔をしていたが、それは正直どうでもよかった。
 自分で言うのもなんだが、三年は学年トップをキープしていた実力がある。それだから、ゆかりに絶対合格するように何度も勉強を教えていた。勿論…学校だけで教えるような勉強だけじゃないのだが。

 ――――

 第一種接近遭遇
  空飛ぶ円盤を至近距離から目撃すること
 第二種接近遭遇
  空飛ぶ円盤が目撃者やその周辺に影響を与えるまで近づくこと
 第三種接近遭遇
  空飛ぶ円盤に乗っている者を目撃し、彼らと肉体的接触を行うこと

 肉体的接触と言っても、性的な意味など全く無い。むしろ、この定義によれば二種が近いだろう。どうでもいい知識を思い出した直後、目の前の少女は明らかに怯えを隠さずに俺を睨んでいる。その様子から見ても、どうやら彼女はこの時間帯で始めて自分以外の人間を見たのか――。
 ふと思い返す。この時間帯で、俺は確かにそう思った。俺は俺自身が正常だと思っていたが、この時間帯で異常なものを始めて見てしまった。
 そこで思い知らされた。俺も異常であったと――。
 目の前の少女の目を見れば分かる。明らかに警戒し、傍から見れば分からないが、心の中で俺も彼女を見て驚いた。
 何せ拳銃を片手に俺を見ていたから――。先ほどの言葉を訂正しよう、警戒など生易しいものではない、敵意だ。下手すれば殺傷能力抜群のそれを持っている所から見ても、殺意まであるようだ。
 勿論俺に殺される理由など無いし、相手が『前世で君に酷い事をされた』とのた打ち回るような電波な女の子でなければ、多分いきなり発砲する事は無いだろう。そんな淡い期待という名の願望を胸に、何と話せばいいのか戸惑ってしまう俺がいる。
 勿論こんな時間でもなければ、いっその事深夜に美少女が拳銃を持って佇んでいる不可解な状況など、無視するに限るのだが生憎今は無理だ。

 俺の思考回路は、この瞬間を持って何かが崩れ去ったと明記しておく。

 でも、その中で女子高生特有の短すぎるスカートで、生足で、太股に拳銃のホルスターが付いているってギャップも、なかなか俺の心をくすぐるんじゃないのとバカな事を考えてしまう。俺だって一般的かつ健全な高校生だもん、無理を言うなよ。しかし脚線美ってこういう事を言うんだな、これで夜の三日間は保つ。
 まぁ、本当は三日じゃなくて、意識を失うから二日間だったけどね。シャドウ襲撃当日は寝てなかったし、後述するが、中断せざるを得なかったし。

 ――――

「……バカ?」
「うん、あの時、影時間の間だけ監視されていると分かった時は本気で安心した。あの時間前も監視されていたら、多分泣いていた」
 白状します。あの生足は俺のWeakPointでした。多分、と言うか今でもそうだが、足で攻められたら確実にアウトです。だけど基本的に俺が攻めるほうが多いので、そんなことなどレアシャドウに出会う確率より低い。
 ゆかりの前で嘘を付いても仕方ない。転校してきた直後では考えられなかったが、今となって、ゆかりには本音しか言わない。時には『何恥ずかしい事平気で言ってんの……』と、口では恥ずかしがっているものの、嫌な顔はしない。
 まぁ、歯が浮くような台詞を平然と言えるようになった原因は、紛れも無く目の前のゆかりだし、こうやって自分が変われた理由も言わなくても分かる。そうやって真っ暗だった世界に新しい何かをもたらしてくれたんだ。だから今度は俺がする番と、勝手に決めている。

 ――――

 名前の分からない脚線美の美少女は恐怖からか、少しだけ潤んだ瞳でこちらを見つめている。多分俺が何も言わないから、自分の中の殺意よりも恐怖の方が勝ってしまったんだろう。多少なりとも女の子を泣かせた罪悪感と、潤いを見せたそれは俺の心を豪快にシェイクする。もっとも、そんな事は傍から見れば分からない。
 そうだ、女の子だ。そして長年付き合ってきたこの時間限定の体内時計からすれば後一分も無いが、一分だけ二人きり。他はいたとしても棺だろう。
 今の時間帯なら、何をしても許せる。どうせ世界に二人っきりしかいないんだし。
 自分の中で何かがハジけた……。
「俺は……」
 その瞬間、名残惜しいものだが時間が過ぎた。首元から鎖骨、そして胸元へと垂れ下げているプレーヤーから、遠巻きに音楽がまた聞こえてきた。そしてこの建物の概観も元に戻り、電灯がついてしまう。心の中で舌打ちをしてしまったのは言うまでもない。
 仕方ない、夜はまだ沢山あるんだ……これからが楽しみだ。

 そう思っていた時期も、俺にはありました。

 ――――

「頭痛い……あの時は何考えているのか分からないと思ったら、そんな事考えていたのね……」
「うん。ほのかに滲み出るエロティシズムを十分に感じ取った」
「そんな変な言い方しないでよ!」
 本人は気づいてないだろうが、というか気づいているはずも無いだろう。何気なくエロい所があると。やはり冬の私服は…彼氏の俺が言うのも変だが、キャバ嬢にしか見えない所もある。一度だけそういうプレイを望んだが、返ってきたのはグーパンチだった。前が見えねぇ。
 結局、俺がこの一年間で何を学んだかと言うと、素直でいればいいんじゃないかという事だ。欲望に忠実すぎると順平みたいになってしまうと一度だけ非難されたが、下手すれば俺の方が順平よりも末期かもしれない。とはいっても、俺が欲望に忠実になるのはゆかりにしかならないし、ゆかりとてその事が分かっているからあまり強い口調で言わない。
 現にこうやって、放課後の屋上で誰もいないから、またこうやって後ろから抱きついたり、首元に吐息を吹きかけて反応を楽しんでいる。始めは誰か来ちゃうから駄目と言われたが、徐々に俺の行為がエスカレートしてくると、その艶やかな唇から発せられる声を抑えるのに必死になっている。最早ゆかりの弱点など、これでもかという位分かっているから、この反応は何回やっても口元が緩んでしまう。だけど分かってないな、誰か来るかもっていう緊張感と、校庭から誰かに見られるかもしれないって言う緊迫した状況も、一種の興奮剤の一つだと。
 そういえば、一度だけとある占いをクラブ・エスカペイドの占い師の人にやってもらった。結果から言えば、俺は比較的、というよりもかなりの嗜虐的だそうだ。ちなみにゆかりは両方を併せ持つ珍しいタイプだと言われ、ちょっとだけ怒っていたが、俺は凄く納得をした。なにせ普段は順平のボケに対して殴ったりツッコミを入れたりしているが、ぶっちゃけベッドの上では凄いくらい性格が逆転している。

 ――――

 さて、これから寝るかと思っていた。この部屋に監視カメラが設置されているなんて、この時は露知らず、今日の夜食は昨日一昨日と続けているけど、別シチュエーションにしようかななんて思っていた。ちなみに順平の言っていた噂なんぞ、むしろ俺からすればバッチ来いだよ。噂が事実になるなんて『噂』が一時期流行ったけど、それが本当なら早速既成事実を作らなくては、とか馬鹿な事を思っていた。
 よし、じゃあ今日は放課後、誰もいなくなった教室での逢引から発展する事をしようと、早速制服を着て、ベッドに横になる。決して眠る事はせず、シチュエーションの構成力を高めるだけだ。そのためにわざわざ制服まで来たんだし。


 茜色に染まった教室の中で、それ以上に頬を赤く染める彼女と熱い抱擁から繰り広げられる情事。時には自分の机の上で、時には彼女の机の上で、または転校初日に話しかけられて仲良くなった順平の机を淫猥な液体で汚していく。そこには普段はクールで何を考えているのか分からない彼と、本人は嫌がっているが、度々噂になるほど注目を浴びる彼女の面影は無く、ただひたすら行為により互いを貪りあう男と女がいた。


「起きて!」
 そんな! いくら俺でもこんな深夜に夜這いにかけられるなんて思いもしなかったよ! しかもこの時間帯とは君は確信犯だな! よーし待て、今服を脱いで準備をするからな。
「ごめん、勝手に開けるよ!」
 そんな! 服を脱ぐ時間すら惜しいのか!? 着衣なの!? 着衣をお望みですか!? 確かに俺今制服だけどさ!
 そう言いながら声の主は勢いよく部屋に入ってきた、しかも俺の望みが適ったのか、彼女も制服と来たか。
「岳羽さん、何があったの?」
 俺はいたって普通に対処する。そう、あくまでも周りの俺の印象はクールな高校生だ。分かってる、分かっているよ、君も俺の部屋に来るって事は、そういう事をされるってお望みなんだね。
「話は後で! 今はここから逃げるよ! 付いてきて!」
 え? 逃避行!? いきなり高校生活をかなぐり捨てて俺と逃げよう宣言ですか!? とにかく、凄いほどの期待を胸に彼女の後を付いていく。まるで導かれるように一階の裏口へ辿り着いた俺達は、その直後に起きた裏口の入り口を破壊しようとする衝撃の前に、撤退せざるを得なかった。
 つまり、アウトドアプレイが出来なくなったか。
 その後、とりあえず(覗きなどがいない)安全な所(でプレイする場所)として屋上へと駆け上った。この際俺の方が主導権を握るように、前を走りながら、かつ彼女の手を引っ張りながら走る。彼女はちょっと慌てながらも、そんな事を気にしている状況ではないと割り切った。それに、どうせすぐにもっと凄いものを握っててもらうんだからな。

 ――――

「結論から言おう。初めて会った時から」
「……なんか、素直に嬉しいって言えないんだけど」
 ゆかりは思った。どこから彼の思考回路が砕けたんだろうかと。結果として自分と会った直後から何かが崩れているとしか言えない。そこになにか、彼の人生を大きく変えてしまった責任を感じてしまうが、冷静に考えてみれば彼が勝手に壊れただけのことだ。まぁ、生足ホルスターは確かに反則技だと思うけどね。
「人生って凄いよね、一目惚れするだけでこうも価値観を大きく変えてしまうなんて俺もそうだし、ゆかりもそうだったし」
「うう……そうやって言われると反論したくても出来ないよ」
 母親との確執から、結婚しないで一人で生きていくと豪語していた彼女の考えは、もう既に大きく変わっている。それは彼の変わり方よりも緩急は少ないのだが、幼い頃から母親を見続けてきた彼女にとって、それは自分の考えの根底ともなる存在だった。それをいとも簡単に崩してくれたのだ、彼は。
 もっとも、出会った直後に彼の考え方を180度変えたゆかりが言えた性質ではないのだが。

 結局、俺があの時部屋に乱入されたのは夜這いでもなんでもなく、寮に危険が迫っていたから。あの時俺の考えをそのまま実行していたらどうなったんだろうとか、本気でバカな事を考える。
 多分、こうやって話している事も無く、内なるタナトスを目覚めさせて凄まじい光景になっていただろう。
 どうやら、あの時俺の部屋に現れたのはただの女神ではなく、あの一年間の戦いというラグナロクへと導くワルキューレだったんだろうなと、横にいる彼女を見て思う。
 そのおかげでこうやってすごせているのもおかしな話だけど、そう考えるとあの戦いがあった方が良いかなって不謹慎な事を考えてしまう。ごめん、分かっている、無かった方が良かった事も沢山あったけど、今こうして世界の事を考えないで、俺個人の感想を持っていてもいいんじゃないかと思う。それが人間だから、俺だから。

 そしてまた、少し暗くなった冬の寒空の下、耳たぶを甘噛みしたり、口を離した直後に続けざまに周りが聞いているだけで恥ずかしくなるような言葉を言っては反応を楽しんでいる。

 面白いからいいじゃん。